哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

命とヴィパッサナー それは一つなのです

 

 

命とヴィパッサナー
それは一つなのです
とカンポン・トーンブンヌムさんは教えてくれる。

ブッダ
放逸にふける者は 生命ありとも すでに死せるにひとし
(ダンマパダ21)と説いている。
「サティが失われている間は死人に等しい」という意味だ。

命とヴィパッサナー
それは一つなのです
も、そういう意味だ。
  
 

 

 気づきの実践1ヶ月で悟ったカンポンさん。

脊髄損傷で首から下がほとんど動かなくなったカンポンさん。

滅苦を求めて十六年間仏教を本で学んだが、
ただ知識だけでした。苦しみはそのまま
地図はあるけれどまだ旅には出ていない、そんな感じでした。行きたい目的地には程遠かった


しかし、過酷な体験で苦聖諦を体得したカンポンさんは、手のひらをひっくり返す感覚に気づき高めていく正しい実践を1ヶ月ほど必死に続けて、ついに「今ここ」を体得し滅苦を実現する。
1ヶ月!!

「呼吸さえあれば、誰だって修行はできますよ。…少しでも動くなら、手を動かして気づきを高めましょう」
(カムキエン老師)

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まさに苦しみに感謝、障害に感謝です
 
もし苦しまなかったら、修行にも出会えませんでした。
自分自身を観ることなどなかったでしょうね
 
自らを知り、苦しみを消すことができてはじめて― 他の人を助けることができるのです
 
 
 
 
 悟りとは、滅苦の実現です。
滅苦の実現に、苦聖諦の実感は必須の前提です。
苦聖諦の実感によって生じる特別なエネルギーだけが、
サティの持続を可能にするからです。
呼吸さえあれば、誰だってサティはやれますが、
3分と続かないのです、苦聖諦の助けなしでは。

サティがろくにできないのは、苦聖諦の理解があまりにも浅いからです。

 

 

では、カンポンさんが事故で全身麻痺になったような恐ろしい体験を待つべきでしょうか?願うべきでしょうか?

そうではないでしょう。

 

ブッダの教えは、

そのためにあるからです。

 

 

サティ
「瞬間の現在(今・ここ)」に気づくこと。

ヴィパッサナー実践
「瞬間の現在」に気づき続けること

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 (My Favorite Songs)

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(過去記事統合増補編集再録)