子供の時からずっと犬を飼っていた。その犬を見ていて。
昨日、餌を食べ草の匂いを嗅ぎながら散歩をし排便し寝た。
今日も同じことをしている。明日もそうだろう。
そして、毎日同じことの繰り返しのようで、実はすこしづつ壊れていっている。
やがて病気になり死んでしまう。
人間も同じだ。
おれもこの犬と少しも変わらない。
人は生きている限り困難な事態に絶え間なく直面する。
だから様々な苦労に積極的に立ち向かい人生の経験を豊富にしていけば、次第に新たな困難に順当な対応が楽にとれるようになる。自信もついてくる。
確かにそれは事実に違いない。
しかし、これが人生だと言われ続けることに、おれは根本的な疑問を感じざるを得ない。
なぜなら、それは犬だってしてることだから。
犬なりに全力で。
社会の習慣は常時ONの定力装置で、それに常にそれ以上の力で抵抗していないと、加わる影響はどんどん大きくなる。
日常人は、ごく若い時以外はほとんど抵抗しないから、歳をとるにしたがってその受ける影響は蓄積され、ついにはまったく社会習慣の権化と化す。
頭がすっかり硬くなり、もはや自分で考え悩む努力は消え、新しいことを一切受容できなくなる。
そうなると、ずうずうしくも「俺は精神の安定した大人になった。良識ある社会人になった」と調子づく。
自分が思考停止してると気づかず、
悪いものは悪い。いいものはいい。ダメなものはダメ。変化するな。世間の習わしを守れ!
と安物ロボットのように繰り返すだけになる。
※定力装置 一定の力を加え続ける事のできる装置
インド。
繰り返し生を受けるのは難儀なことだというのは熟成した表現だ。大人の言葉だ。
日本人は思想的に子供だからこのインドの大人の言葉はよく分からないのだ。
日本人は輪廻転生してでも、とにかく生き続けることを望んでいる。
時間とは何か?
時間があるから事象の変化が起きるのではない。
事象の変化があるからそれに対応するために時間観念ができた。
実際にあるのは時間ではない、絶えざる事象の変化だけだ。
だからといってだれも時間を無視できない。
おれも時間観念を手放したことはない。
呼吸瞑想もタイマーで時間計ってやってるし。
時空と因果律は先天的で、生まれた後に捨てようとしても捨てられない。
時間→無常ではなく無常→時間の関係だと言いたいだけだ。
時間とは何かという問いは、
無常とは何か
という問いに答えることを要請する。
無常が分かれば時間も分かるだろう。
無常を言葉で理解した気になっても、それは無常を時間観念で定義してるから、分かったうちに入らない。
(My Favorite Songs)
ブレッド。
「灰色の朝」
(過去記事統合増補編集再録)