哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

勝利の経…なぜでしょう

以下のブッダの教えは、古来
勝利の経
と呼ばれてるんですよ。
さて、なぜでしょう。


193 ある いは歩み、或いは立ち、或いは坐り、或いは臥し、身を屈め、或いは伸ばす、―これは身体の動作である。

194 身体は、骨と筋とによってつながれ、深皮と肉とで塗られ、表皮に覆われていて、ありのまま見られることがない。

195 身体は腸に充ち、胃に充ち、肝臓の塊・膀胱・心臓・肺臓・腎臓・脾臓あり、

196 鼻汁・粘液・汗・脂肪・血・関節液・胆汁・膏がある。

197 またその九つの孔からは、つねに不浄物が流れ出る。眼からは目やに、耳からは耳垢、

198 鼻からは鼻汁、口からは或るときは胆汁を吐き、或るときは痰を吐く。全身からは汗と垢とを排泄する。

199 またその頭は空洞であり、脳髄にみちている。
しかるに愚か者は無明に誘われて、身体を清らかなものだと思いなす。


200 また身体が死んで臥するときには、膨れて、青黒くなり、墓場に棄てられて、親族もこれを顧みない。

201 犬や野狐や狼や虫類がこれをくらい、鳥や鷲やその他の生きものがこれを啄む。

202 この世において知慧ある修行者は、覚った人(仏)のことばを聞いて、このことを完全に了解する。何となればかれは如実に見るからである。

203 《かの死んだ身も、この生きた身のごとくであった。この生きた身も、かの死んだ身のごとくになるであろう》と内にも外にも身体に対する欲を離れるべきである。

204 この世において愛欲を離れ、知慧ある修行者は、不死・平安・不滅なるニルヴァーナの境地に達した。

205 人間のこの身は不浄で、悪臭を放ち、(花や香を以て)まもられている。種々の汚物が充満し、ここかしこから流れ出ている。

206 このような身体をもちながら、自分を偉いものだと思い、また他人を軽蔑するならば、かれは盲者でなくて何だろう。
ブッダのことば「勝利」 中村 元訳より引用終)

 

 

 スマナサーラ長老の解説の冒頭に

 

『勝利の経』は、…
…なかなかこころが俗世間の次元を破れずに、欲の泥沼の中から脱出できないで苦労している時、強いインパクトでこころに真理を叩き込むための経典なのです。

勝利の経序「変えたくはない固定概念」)

 

とあります。

 

 

 

 

 

 ブッダ
身体は不浄である
と言明しています。

 

ブッダの真理のことば ダンマパダ 中村 元訳)
 あれこれの考えをしずめるのを楽しみ、つねに心にかけて、(身体などを)不浄きよからぬものであると観じて修する人は、実に悪魔の束縛のきずなをとりのぞき、断ち切るであろう。
(引用終)

 

 



人間中心の世俗主義的思考に馴らされた大多数の人々は、これがわからない。

 重要なポイントは
仏道は自分で実行するためだけにあり、
からだが不浄であるという事実をふかく観じる
不浄随観がそのかけがえのない入口だ

ということです。

 

 

(パティパダー巻頭法話)スマナサーラ長老の法話


 身体は穢いものです。それは事実です。その証拠にあなたは毎日のように入浴をするでしょう。
一週間ほどからだも顔も洗わず、歯も磨かず、下着もそのままにしていたらどうなるでしょう。結果は想像できますね。人間はみな美味(おい)しいものを食べます。しかし、美味しいと思ったその食品も口に入った途端汚いものに変化していきます。因(ちな)みに、自分の大好物な食べものをひと口噛んだあともう一度手のひらに戻しその大好物だった食品をよく観察してみてください。それからその一度噛んだ食品をもう一度口のなかに戻してみましょう。ちょっと常識ではできませんね。実際それをやらずとも想像するだけでも試してみる自信のある人などいないはずです。

 咳、痰、膿、尿、便、汗、鼻くそ、耳垢をはじめ、胃や腸など内臓など自分のものでないかぎり他人を不快にするものばかり人間一人一人が所有しているのです。さらに言えば、口から入ったものは内臓を下に行けば行くほど不浄なものに変わってしまい最後は大便として排出されてしまいます。人間の肉体はまさに不浄の塊、不浄の工場といった観があります。
 ところで、不浄随観(ふじょうずいかん)は仏教の冥想法のひとつです。からだが清浄なものとおもっている妄想概念を越えて、からだが不浄であるという事実をふかく観じることができると、まず快楽を求めるからだに対する煩悩が消滅しはじめます。高慢で自我中心的の間違いだらけの生き方に気づき、心が清澄になり、日頃の悩み、苦しみ、不安といった汚れた心がなくなっていきます。

 こうなると、もう安心です。心ははじめて真の安らぎを感じられるようになり、さらには、完全で清浄なる、人間本来の真の本体が輝きはじめ、すばらしい精神世界を目指して励む心にも、縦横な確信が湧出して身についてきます。もう、どんな悪魔にも負けることかありません。

[引用終]

 

 

 


 不浄随観に抵抗して
「本来汚いも綺麗もない」
と反論する人達がいる。

こういう人達は、坐禅を見ても
「座ろうと立とうと関係ない」
と言う。
知識が仇になっている。

悟った人の口真似をしていてはダメだと気づかないのか。



上記パティパダー巻頭法話の最後にこういう質問が設けられている。

 すべての人は自分の身体を清浄だと思っていますが、他人の身体は自分にとっておなじように清浄だと思えますか?

あなたはどう答えますか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   (My Favorite Songs)

 トミー・ジェイムズ&シャンデルズ。
「モニー・モニー」


Tommy James & The Shondells Mony Mony

 

 

ハンキー・パンキー 

 


Hanky Panky by Tommy James and the Shondells

 

 

(過去記事統合増補編集再録)