哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

日曜の朝、目覚めてすぐベッドの中で瞑想してみる

イメージ 1


 昨日、日曜の朝10時過ぎ起床。前夜、意味なく遅くまで起きていたので目覚ましかけずに寝た。

いつもなら目が覚めるとすぐ尿意があり、まずトイレに行くのだが、今朝はそれがない。

「チャンス!」とおもい、そのままベッドの中でただちに瞑想を試みた。

目覚ましをかけず寝たいだけ寝た後なので、ベッドの中でも居眠りする心配はない。

いつも枕元においてあるタイマー
(100均で買ったクッキングタイマー)のスタートボタンを押し「膨らみ、縮み、膨らみ、縮み」……目覚めてすぐの瞑想は雑念がほとんど湧かず入りやすい。(トイレにたつだけで、その入りやすさは半減する)

 

 

30分終了。もう1度30分。調子がいい。

もっと続けたかったが、買い物に行く用事があるので、いったん止める。

 

 

 

外へ出て動きまわっても、瞑想の余韻が少し残っているのがわかる。

だけがクリアで、

その前後が希薄な状態だ。

雑念は湧くのだが、自分と雑念に距離があり、空吹く風のようで気にならないのだ。
胸の奥のほうに不思議な心地よさがある。

前後が完全になくなれば、もっとさっぱりした気分
廓然無聖(かくねんむしょう)の境地に通じるような)になれるのだろうが、朝30分や1時間、不完全な瞑想をしたくらいではなかなかそこまではいかない。

その心地よい余韻も、買い物を終えた昼すぎには感じられなくなった。

帰宅後、風呂。出た後、瞑想。


※「廓然無聖
達磨大師の言葉。秋晴れの空のように広々と澄み切って何もない様子。

ヴィパッサナー実践

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(My Favorite Songs)  

大西ユカリと新世界
That Lucky Old Sun

 

(過去記事統合増補編集再録)