ただ
本は真如、末は神通の意味で修行を指す。
根本をしっかりと捉えて、末節に走るなということです。…
つまり本当の事さえすれば、それを人が知るとか知らんとか、功徳がどうの、神通がどうの、そんなことは問題ではないのです。
…しかるに、この本を捨てて末を追うものだから、何時までたってもこれにいき着かない。
ただ末末と末ばかり追うて、それでとうとう日が暮れてしまう。…
『ただ本を得て末を愁うることなかれ』と工夫することが最も大切なことであります。
(澤木興道[禅談]「ただ本を得よ」より)
※『ただ本を得て末を愁うることなかれ』は証道歌の一節
「覚触」という語を、この本で知った。
この上なく重要な語だということは、なんとなくわかった。
曹洞宗の決まり文句「ただ坐れ。坐ってればいい」
に従って、坐禅しに寺に通ったが、
おれには雲をつかむようで途方に暮れた。
具体的にどういうことなのか、明確に教えてくれる人に出会えなかった。
のちにヴィパッサナー実践の道を、スマナサーラ長老の法話で知って、初めて腑に落ちた。
目が、オレはカシコイのだけれど、位が低いとも思わず、眉はオレは役なしだけれど、位が高いと思わぬ。---仏法の生活とは、この不知の活動である。
山だからというて高いと思わず、海だとて広いとも深いとも思わず--- 一切合財、不知の活動じゃ。
野鳥自啼花自笑、不干岩下坐禅人---野鳥は坐禅している人に、ひとついい声を聞かしてやろうと思って鳴くわけでもなく、花も人に美しく思ってもらおうと思って咲くのではない。
坐禅人も、悟りをひらくために坐禅しているのではない。
みなただ自分が自分を自分しているのである。
(「澤木興道老師の言葉 禅に聞け」櫛谷 宗則編)
※画像は安泰寺HPより
(My Favorite Songs)
夏川りみ。
「花(すべての人の心に花を)」
真実の持つ力で癒される。こんな曲を作る喜納昌吉は天才だ。
(過去記事統合増補編集再録)