馬祖禅師の師は南岳懐讓禅師
悟りの世界を言語で言い当てることは原理的に不可能、
という意味だと思います。
(過去記事ショーペンハウアー編修1より関係部分を引用します)
概念で表わせないことを、直に言語化すると、たいてい夢のような茫漠とした表現、あるいは狂人の語る自家撞着的言葉に似たものになる。
日中の禅家語録は、そのような表現の一大集積だ。
表現上のあらゆる工夫を駆使して、なおこの分かりにくさだが、これには必然性があるわけだ。
抽象的なことがらが人に理解されるのは、結局、世の中の人々の申し合わせにもとづいている
(ショ-ペンハウアーの主著「意志と表象としての世界・正編」第四十八節 西尾幹二訳)
概念化の手段(言葉、文法)は、平均的人々の平均的人々による平均的人々のための道具である。
きわめて例外的な、因果律に支配されない聖者の体験は、前提されていない。
平均的人々は、そのような体験を夢にも知らない。
だから、それを表現する言葉も文法も初めからない。
(以上引用終)
六祖問南嶽讓曰「什麼物恁麼來?」
讓曰「説似一物即不中」
六祖曰「還可修證否?」
懐譲讓曰「修證即不無、藷ワ染即不得」
懐讓の法を継いだ馬祖道一との応答「南嶽磨磚」は有名です。
(これもヴィパッサナー実践との関連で触れた過去記事から、その部分を引用します)
「不染汚の修證」という重要な話も、ここですべきなんでしょうが、おれの実力では言葉の遊びを超えられないので止めます。
人間の目指す方向としては違うが、
岩をも通す一念の強さに可能性があるとおもう。
このくらいのパワーでやらないと、ものにはならないよ、
ヴィパッサナー実践 も。
法然上人道詠一首。
逢仏法捨身命といへる事を
かりそめの色のゆかりの恋にだに逢ふには身をも惜しみやはする
(過去記事統合増補編集再録)