たまたま信心おこせども、自心仏と知らざれば、ただ徒らに狂奔し、かくも尊き仏法を耳にしつつも、一向に信心帰依の心なく、生死の海に浮沈して、三毒五欲の妄念と憎愛取捨の迷執に、日夜造業造作して、永劫出離の際もなし。
悲しいかな、われら一念に悟れば直にこれ仏となるを知らずして、却って一念迷うが故に、自ら凡夫となりさがる。
憐れというも愚かなり。
(宗門安心章第二 自覚安心)
修行が進まないのは、自分を信じないからだ。
自分を信じられないのは、心の底に恐れがあるのに、それを不誠実な態度でごまかしているからだ。
心の恐れを、ごまかさずにいられないのは
「人は死んでも、自分だけは死なない」と思っているからだ。
嘘を信じようと無理をするから、自信がもてなくなり、
自灯明の人生を歩む
ことが根底的にできなくなっている。
病なんの処にか在る。
病は不自信の処に在り。
(臨済禅師)
「修行が進まないのは、お前が自分を信じないからだ」
と臨済禅師は断言している。
釈尊の「自灯明」の重要さを説いているのだ。
臨済禅師の「自信」といい、釈尊の「自灯明」といい、とてつもない奥行きのある言葉だ。
ダイソーにお経の折本が各種置いてあった。
臨済宗、曹洞宗、真言宗、天台宗、浄土宗、真宗、日蓮宗、棚にあった全種類を買ってきた。
それぞれ特色があり、じつに興味深い。
かなり得した感がするけど、おれだけか。(昔、古本屋で新品の縮刷版真宗聖典を500円で買って、すごく得した気分でウキウキしたのを思い出した)
臨済宗を開くと「病何れの所ぞや。病不自信の所にあり」の句も載っている。
白隠禅師の「衆生本来仏なり」で始まり「此の身即ち仏なり」で終わる有名な和賛も。
(過去記事統合編集再録)