哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

王に点を付けて玉にし、その玉にさらに点を付け意味不明にする

「質問15」より引用させていただきます。
 
gacchanto vaa 歩いているときは
gacchamøti 歩いていると
pajaanaati 知る。

歩いているときは歩いていると知らなければなりません。これだけです。
歩いているときに歩いていると知ることが難しいでしょうか?難しくありません?
難しくないのでこれをある人は法ではないと思っています。
これは仏説です。仏説でなければ全部取り除くでしょう。
仏説であっても「これは違う、それは違う。」といって更に付け加えたいのでしょう。
何と同じかといえば
王に点を付けた編集者のようなものです。
直すところが無いので王に点を付けて玉に直したそうです。

その様にgacchanto vaa 歩いているときに歩いていると念じると
足や身体のイメージになってそれは勝儀諦ではないと修正したいのです。
それは王に点を打つようなものです。
これは仏説です。修正する必要はありません。
勝儀諦である名色などを考察しながら念じさせたいならば、
釈尊は違った形で説くでしょう。
例えばgacchanto vaa naamaruupanti pajaanaati
gacchanto vaa 歩いているときは
naamaruupanti 名色をpajaanaati 知ると、この様に説くでしょう。
(The Dhamma talk of Ariyaavaasa sutta)
 
引用終(文中のリンクと強調の付加はわたしです。原文にはありません)

 

 

 

 
 
 この馬鹿な編集者の比喩を見て、おもったことがある。

 
 
 大乗仏教徒は「王に点を付けて玉にする」類の説を大量に作った。
その後から生まれた大乗仏教徒は、
この玉にさらにいくつも点を付け完全に意味不明にしたと。
その大量の薄気味悪いごみで、
 
比肩するものなき
明晰判明な教え
 
を覆い尽して、ほとんど人目に触れないようにしたと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(おまけ)

大過ぎる一発屋、二組。

 

プロコル・ハルムはデビュー曲「青い影」1曲で不滅に。

 

 




 
 

これはゼーガーとエバンスの予言的名曲「西暦2525年」

 

 

 

 

 

 

 

 

(過去記事統合増補編集再録)