おれは、この前の戦争の記録を見て、大勢の著名な仏教者の戦争中の発言を知り非常に驚いた体験がある。
日本という小さなグループへの滅私奉公を説いている。この公が会社や国家に対する無私に過ぎず、実際には公でさえない。自己が曖昧だと公も曖昧になり、会社ごときを公とみなして滅私してしまうのが「グループぼけ」だ。今でもいたるところで発生している。
日本(アジアの多くの国も)は大衆レベルでの自己の確立が不十分だ。
日本が、「自己がない前近代的な精神」のままで、次の発達段階である自己の確立を経ずに、それ(自己がない前近代的な精神)と外面は似ているが実は精神の最高段階に位置している「無我」と連続的につながろうと企てると、諸々の忌まわしいことが起こる。
その結果、多くの悲惨な犠牲を払う長い回り道をしてから、しぶしぶもう一度「自己の確立」をやり直す破目になる。
歴史的な経緯から「近代的」自我などといわれるが、自己の確立はもちろん近代に限ったものではない。イエスも釈尊もソクラテスも 自己の確立を経て彼らとなったのは当然だ。
自己の確立が完成しないまま外面的類似に頼って無我につながろうとすると、無我と似て非なる滅私奉公などという欺瞞的言辞にひっかかり「グループぼけ」に堕ちることを歴史が教えている。
ちょっと昔、皆が場の空気を読むばかりで、事実を無視して戦争に突入し、結局は鉄丸を飲むような無残な敗戦となった。
その反省の核心で
無責任の体系
(みんなの責任=誰の責任でもない)
の否定が、戦後日本国民に共有されたはずだった。
それは、
誰かに責任を押し付け詰め腹を切らせてお茶を濁すことではなかったはずだ。
それは、
滅私奉公などの無我風言辞でエゴを隠し、責任を回避しながら、個々人の私利私欲を実現しようとする旧来の醜い悪癖
を捨てることだったはずだ。
しかし、特に福島原発事故以降の様々な事象によって、日本人は何一つ変わっていないことが明らかになってきたとおもう。
同じ過ちは繰り返しません…
何が過ちだったかも分かってないくせに。
また日本人は「和をもって貴しと為す」を最も尊重する。しかしこの実行が、自己の確立以後になされるか、以前になされるかで、結果に天地の違いが生じる。偉大な聖徳太子はたいへんな言葉を残してくれたものだとおもう。
もちろん自己の確立が、すべての悲惨を回避するというのではない。一時的には、くっきりした自我同士の衝突による争い事が増え、和が乱れるかもしれない。
おれの分類では、悪い意味で自己のない人間は平均人、自己の確立した人間は野心家、無我の人間は聖者だ。野心家には野心家特有の激しい悲惨がつきまとう。すべての悲惨を回避できるのは無我のレベルだけだが、そのためにまず自己の確立が不可欠なのだ。
無我は、
自己の確立が十分になされた精神の、
最終的完成としてのみ起こる。
(おまけ)
ポリス。
(過去記事統合増補編集再録)