哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

人の認識は常に、あらかじめ意志に強姦されている

ショーペンハウアー「みずから考えること」心理学的覚え書 石井 正訳)より引用します。
 
人は、自分の生殖器を隠すごとくに、自分の意志を隠さなければなりません。これら二つのものは、いずれも、存在の根ではありますけれども。
また、人は、自分の顔だけを他人に見せるごとく、認識のみを表わすようにしなければなりません、これを犯せば、卑俗になるという罰を受けます。

(引用終)


 普通、人は自分の認識のみを表わしているとみずからも信じきって、その実、認識の薄皮をかぶった意志を表わしている。

少し眼を凝らして視さえすれば意志が透けて見えるのだが、認識はそれを決して視ない。

それはなぜか。

人の認識は常に、あらかじめ意志に強姦されている。
意志に屈した認識は、そのつどの自己弁護という果てない内向き仕事で手いっぱいになり、
外界の純粋観照という生まれた時に持っていた能力を放棄したからだ。



[追記(サーチしたら以前こんな書き方もしてました。こっちが分かりやすい)]
 普通、人は自分の認識のみを表わしているとみずからは信じていても、その実、認識の薄皮をかぶった意志を表わしていることが他人にバレバレなのは別に珍しいことではない。隠し方が下手くそなので、少し眼を凝らして視さえすれば意志が透けて見えている。
しかし、隠し手の認識だけは自分をおかしている意志を決して視ない。たとえ鼻先に突きつけられようと白を切るのだ。しかもこの作業を無意識で済ますことが簡単にできる。人は自分に対して先天的な嘘つきなのだ。

[追記終]



もし認識が自分自身を外界の一景色として観照できれば、奴隷状態の自分を取り繕うために常にキリキリ舞いしている己の醜悪な姿が視えるはずだが、そういうことはめったに起きない。

 
 
(過去記事編集再録)