哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

易行でも、本気ださないと難行になる。難行でも、本気だせば易行になる。

教行信証・行巻 石田瑞麿訳)から。
この文は親鸞聖人が曇鸞大師『往生論註』から写されたものです。
曇鸞大師は、仏道修行成就を難しくする原因がおよそ五つあると説いています。
 
 
 
一つには、異教の徒(外道)の相対的な善は、菩薩の法を乱す。

二つには、自分だけのさとりしか考えない聖者(声聞)は、自己の利益にとらわれて、菩薩の慈悲の邪魔になる。

三つには、みずから顧みることを知らない悪人は、他人の優れた功徳を破る。

四つには、本来は迷いであるのに、表面は善の報いとして現れているものは、欲望を捨てる正しい行いをそこなう。

五つには、ただ自力だけによるものであって、他力の支えがない。

こういったものはつまり、みなごく普通に見られるところであって、たとえていえば、陸路を歩いて行くときは苦しいようなものである。

(引用終)

<原文>
一つには、外道の相修醤の反善は菩薩の法を乱る。
二つには、声聞は自利にして大慈悲を障う。
三つには、無顧の悪人、他の勝徳を破す。
四つには、顛倒の善果よく梵行を壊す。
五つには、ただこれ自力にして他力の持つなし。
これ等のごときの事、目に触るるにみな是なり。
たとえば、陸路の歩行はすなわち苦しきがごとし。



 これは坐禅等を自力難行と断じ、念仏を他力易行として勧める文であるが、修行自体に難易があるという龍樹菩薩乃至曇鸞大師の教えに、おれはちょっと異議を唱えたい(こんなの素人初心者の感想で論外だと言われればそれまでなんですが)

念仏や題目が坐禅より易しいとは、全くいえないと思う。

そもそも経文にも、念仏は「易行」だが「易往無人の難信」であるとも書いてある。「易しいが難しい」と言ってるわけだ。一概に易しいとは断定できない。

一方、坐禅は「難行」だが「大安楽」(道元)とも書いてある。坐禅は本来、苦労なく楽々としたものだという教えだ。
「難しいが易しい」と言ってるわけだ。一概に難しいとは断定できない。
さらにまた「今人云はく、行じ易きの行を行ずべし、と。この言尤も非なり。…好道の士は易行に志すことなかれ」(学道用心集6)と。修行を易しさ基準で選ぶなとも教えている。










 おれが実際やってみたら…

どっちも難しかった。


そして、本当は易しいかもしれない行を難しくしている原因は自分の側にあると感じた。

修行が成就しがたいのは、修行者がその行とは直接関係のない様々な惑乱を外境から受け入れてしまうからで、その行自体が難しいからではない。

本気度が足りないと惑乱に翻弄されて、どんな易行道も難行道と化すと実感した。



これは、実際にやってみれば誰でもすぐ分かると思う。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 その行とは直接関係のない様々な惑乱を外境から受け入れ翻弄されて、修行者自身が易行を難行にする典型例。

 

  (動画 2分40秒あたり)
「ゆっくりと手を上げて、感じながら手を上げてください」と言うんです。
こうやって感じながら手を上げてみる…

「はい、これが正真正銘のヴィパッサナー瞑想です」と言ったら、

「えっ、人を馬鹿にするんじゃないよ」という気持ちになる←ここ!

 
 




(過去記事増補編集再録)