私が隣人を愛していることを知るのは、その人から侮辱を受けた後でも、その前に劣らず彼を愛している時だけだ。
なぜなら、侮辱を受けてから彼を前より愛さなくなったとしたら、わたしは前に彼を愛していたのでなくて、わたしを愛していたのだということを、証 しするだろうから。
なぜなら、侮辱を受けてから彼を前より愛さなくなったとしたら、わたしは前に彼を愛していたのでなくて、わたしを愛していたのだということを、
(修道士ヤコブス・デ・ベネディクティスの言葉)
(幸福論 ヒルティ 草間平作・大和邦太郎訳より)
老婆心の注意をちょっと。
自分を愛せない人が他者を愛そうとしても、それは無理です。
キリストも
「隣人を自分のように愛しなさい」
と教えてますから。
自分を愛するとは、どんな嫌な惨めな情けない自分でも直視してそのままを無条件で信じぬくということです。けっして立派な自分なら信じるというようなことではないのです。しかも、先回りして言ってしまうと、これは元々そうである事実の再認識に過ぎないのですが、気づく事が決定的に重要なのです。
侮辱されたからもう知らないというのは、はじめから自分のようには愛していなかったと白状してるわけです。
(ちなみに、キリスト教の隣人は、隣近所の人という意味ではありません)
では、自愛が先で他愛が後でしょうか。
他人を愛そうとする努力によって、初めて自分を愛せるようになる人もいます(女性にはこのタイプが多い気がする)。
また、自愛・他愛は同時進行することで相互補完する関係もあるのでしょう。
しかし、自然な順序は、まず自分で自分を深く信じることから始まると思います(あえて言えば、これは男性に多いタイプ。これが自然と感じるのは、おれが男だからでしょうか)。
仏教の有名なエピソードがあります。
パセーナディ王の愛妻マリッカー夫人は、「あなたは誰を最も愛していますか」と、王に問われ「私は(パセーナディ王ではなく)自分を一番愛しています」と答えたのです。それを聞いたブッダはマリッカー夫人を褒めて、次のように教えられたのです。
人の思いは何処 にも行くことができる。
されど、何処に行こうとも、
人は己 よりも愛 しきものを見出すことを得ない。
それと同じように、
すべて他の人々にとっても自己はこのうえもなく愛しい。
されば、
おのれの愛しいことを知る者は、
他のものを害してはならぬ。
(ブッダ サンユッタ・ニカーヤ3・8増谷文雄訳)
「人は己よりも愛しきものを見出すことを得ない」のは、明々白々の事実です。
ところが、事実を事実として、ごまかさずにはっきり認める人は意外に少ないのです。
自愛は善悪以前の厳然たる事実であって、マリッカー夫人の答えは本当に正直で立派だと、昔初めて読んだときから感心しています。
(幸福論 ヒルティ 草間平作・大和邦太郎訳より)
老婆心の注意をちょっと。
自分を愛せない人が他者を愛そうとしても、それは無理です。
キリストも
「隣人を自分のように愛しなさい」
と教えてますから。
自分を愛するとは、どんな嫌な惨めな情けない自分でも直視してそのままを無条件で信じぬくということです。けっして立派な自分なら信じるというようなことではないのです。しかも、先回りして言ってしまうと、これは元々そうである事実の再認識に過ぎないのですが、気づく事が決定的に重要なのです。
侮辱されたからもう知らないというのは、はじめから自分のようには愛していなかったと白状してるわけです。
(ちなみに、キリスト教の隣人は、隣近所の人という意味ではありません)
では、自愛が先で他愛が後でしょうか。
他人を愛そうとする努力によって、初めて自分を愛せるようになる人もいます(女性にはこのタイプが多い気がする)。
また、自愛・他愛は同時進行することで相互補完する関係もあるのでしょう。
しかし、自然な順序は、まず自分で自分を深く信じることから始まると思います(あえて言えば、これは男性に多いタイプ。これが自然と感じるのは、おれが男だからでしょうか)。
仏教の有名なエピソードがあります。
パセーナディ王の愛妻マリッカー夫人は、「あなたは誰を最も愛していますか」と、王に問われ「私は(パセーナディ王ではなく)自分を一番愛しています」と答えたのです。それを聞いたブッダはマリッカー夫人を褒めて、次のように教えられたのです。
人の思いは
されど、何処に行こうとも、
人は
それと同じように、
すべて他の人々にとっても自己はこのうえもなく愛しい。
されば、
おのれの愛しいことを知る者は、
他のものを害してはならぬ。
(ブッダ サンユッタ・ニカーヤ3・8増谷文雄訳)
「人は己よりも愛しきものを見出すことを得ない」のは、明々白々の事実です。
ところが、事実を事実として、ごまかさずにはっきり認める人は意外に少ないのです。
自愛は善悪以前の厳然たる事実であって、マリッカー夫人の答えは本当に正直で立派だと、昔初めて読んだときから感心しています。
ここを曖昧にしたら必ず偽善に堕ちる。
ここが曖昧な者は「おのれの愛しいことを知る者は、他のものを害してはならぬ」(自分に引き比べて殺してはならない、殺さしめてはならない)という結論の、動かしがたい必然性が分からなくなるからです。
「おのれの愛しいことを知る者は、他のものを害してはならぬ」…この戒の本当の意味は「害せない」から「害さない」という動かしがたい必然性にあります。
たとえば「殺すなかれ」という戒を常に確実に自然に守れるのは、「殺すなんてとんでもない!」と感じる人だけです。
戒は外からの禁止ではなく、内なる必然です。
そうでなければ守れないのです。
実はこの話、パセーナディ王が妻マリッカーと共にブッダに会いに行き「自分自身が最も愛しいのですが、これでいいんでしょうか 」と訊いたことで、仏典に残ったのです。
「これでいいのか 」と思う以前に、すでに無条件に「自分が一番愛しい」と強烈に思ってしまっている。良いとか悪いとかいっても意味はない。動かしがたい事実だから、ごまかさずそのまま認め受け入れるしかありません。強烈に思ってるのに、それに気づきたがらない人間って不思議です。このスタート地点を曖昧にごまかすから、その後の全ての言動が曖昧になって罪を犯してしまう。「自分が一番愛しい」とものすごく強く思ってるのに、それを認めない人が、他のものを傷つけるんだと思います。
事実をごまかすと、非常に多くの災いを招くので注意が必要です。
「これでいいのか 」と思う以前に、すでに無条件に「自分が一番愛しい」と強烈に思ってしまっている。良いとか悪いとかいっても意味はない。動かしがたい事実だから、ごまかさずそのまま認め受け入れるしかありません。強烈に思ってるのに、それに気づきたがらない人間って不思議です。このスタート地点を曖昧にごまかすから、その後の全ての言動が曖昧になって罪を犯してしまう。「自分が一番愛しい」とものすごく強く思ってるのに、それを認めない人が、他のものを傷つけるんだと思います。
事実をごまかすと、非常に多くの災いを招くので注意が必要です。
子供が「なんで人を殺しちゃいけないのか」と訊くと、多くの大人が「そんな常識も分からんのか」と、あきれ顔で嘆いて見せるが、実は自分達も分かっちゃいないことを眼前の実社会で毎日証明している。
この世界で、現に害し合い殺し合いが絶えないのは「おのれの愛しいこと」を真に知る者がめったにいないからだと思います。
「おのれの愛しいこと」を真に知る者は、自分が死を超えられない者である事実をまっすぐ知り、その智慧によって自由を得ます。
(過去記事増補編集再録)