哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

人間として生まれた普遍的意味はヴィパッサナーだけにある

 おれには、おれが生まれる前に死んだ兄がいた。
兄は赤ちゃんのまま死んだ。

兄は何のために生まれてきたんだろう
 
と、折に触れて考えた。


 
 
 
 昔おれに洗礼を勧めるキリスト教系の宣教師とよく議論していた。
ある時、おれは自分の考えを、神を信じる相手に合わせた譬えで話した。
「人間は、神が神自身を見るために神が造った装置だとおもう。この場合、人間という装置は神より先に神を見て神に教える存在だということになる」宣教師は「なるほど」と言った。


 兄も生きている間、間違いなく熱心にこの世界を見、観取したはずだ。それが人間として生まれた意味だとおもった。


 今、おれは、ヴィパッサナー実践が人間の生きる意味だとおもっている。さもなければ、人生に意味はないとおもっている。

ヴィパッサナーとは、赤ちゃんの眼で熱心に世界を見、観取することだ。



過去記事
に、
 
 私の個人的考えに過ぎませんが、人生は意味も目的もないと思っています。
 
 そうなると(途中ははしょる)、
釈尊の教えにしたがって修行する以外にとるべき道はいっさい残されていないと、やがて気づきます。
 
 だから、この道を進むことが人生の唯一の目的だと言えば言えると思います。

 

 
と書いた。
 
この人生の唯一の目的である「釈尊の教えにしたがって修行する」が、もう何度も何度も記事にしてきた「今ここに気づき続ける」ヴィパッサナー実践です。
 
 

〔同日追記〕

 現代の真の問題は、

世界の不幸な人々を救いたいと、あさってのことを言う人はいっぱいいるのに、

ほんとうに自分一個の救いに 精一杯の人がどこにもいないことだ、とおれはおもっています。

他人の縛めを解きたいひとは、まず自分の縛めを解きなさい、この順番はかえられません。

〔追記終〕

 
 
老婆心で書きました。
 
(過去記事増補編集再録)