哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

ブッダの慈悲は適切で至高

過去記事に以下のコメントをしました。

仏伝によると
「わたしが悟った甚深微妙難見の法を世間は到底理解しがたい。法を説いても、わたしがいたずらに疲労困憊するだけだ」
とおもう釈尊に、初転法輪を勧請した梵天
「世間には、法を聞かなければ退堕してしまうが、聞けば悟る可能性のある者もいます。この者たちを見捨てないでください」
という意味のお願いをします。釈尊はこれを是とし
「耳ある者に甘露の門は開かれた」
と宣言します。
釈尊は目的地(真の幸福=悟り)までの正しい道筋を教えてくれるだけです。
自分がそこに実際に行った人の教える道順だけが信頼するに足るものです。
しかし、教えても行こうとしない人は釈尊といえども放っておくしかありません。
釈尊の慈悲は適切で至高のものだとおもいます。

(以上)

 
 
 
このコメントの根拠となる「ブッダのことば」を載せておきます。


HP『ターン・プッタタート』ブッダの言葉による四聖諦・完全版「道に迷うほど道を逸れるから涅槃に至らない」より引用
(中部ウパリバンナーサ 14巻85頁101項)
 「ゴータマ様のお弟子は、ゴータマ様がこのように絶えずお教えになれば、すべての方が究極の成功である涅槃に到達なさるのですか。それとも到達しないのですか」と、一人のバラモンが質問しました。

 バラモンさん。私の弟子は、私がこのように休まず教えても、最高の成功である涅槃に到達する人は非常に少なく、到達しない人たちもいます。

 「ゴータマ様。涅槃があり、生き物が涅槃に到達する道があり、(歩いて行くよう)誘うゴータマ様もいらっしゃるのに、到達する人たちは少なく、到達しない人たちがいる原因は何ですか。縁は何ですか」。

 バラモンさん。反対に質問するのでお答えなさい。あなたはラーチャガハへ行く道に精通していますね。ラーチャガハへ行く男が訪ねてきて、「ラーチャガハへ行きたいので、道を教えてくれませんか」と言われたら、あなたは「こちらへ行かれなさい。この道がラーチャガハへ行く道で、しばらく行くとこういう名の村があり、こういう名の町が見え、ラーチャガハの楽しそうな森が見え、楽しそうな地域が見え、楽しそうな池が見えます」と言います。

あなたがこのように教えた男が道を間違えて反対の道を行き、(あなたが同じように教えた)もう一人の男は、無事にラーチャガハに到着します。バラモンさん。ラーチャガハの都はあり、教えるあなたもいるのに、どうして一人の男は道に迷い、もう一人の男は無事に到着する原因は何で、縁は何ですか。

 「ゴータマ様。それは私にはどうしようもありません。私はただ道を教えるだけですから」。

 バラモンさん。同じように涅槃があり、涅槃に到達する道もあり、勧める私がいても、私がこのように休まず教えている弟子でも、最高の成功である涅槃に到達する人たちは少なく、ある人たちは到達しないのは、バラモンさん。これは私にもどうしようもありません。私はただ道を教えるだけですから。

(以上引用終)

 なんだか冷たい態度のようであり、頼りないようでもあるが、このブッダの慈悲は適切で至高です。「人類総てを救う」等、ブッダ以上のケアを主張する昔からいた沢山の教祖達は、みなインチキだとおもいます。彼らが自分たちの誰一人保持できないことを保証しているからです。
 
(過去記事再録)