哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

ショーペンハウアー6聖者

聖者の境地は、聖者にしか分からない。
と言ってしまえば、話はここで終わってしまう。
ショーペンハウアーの力を借り、無理に想像して書いてみよう。本気にしないように。

真に根源からの反省と批判がはっきりと現われるのは、肯定された意志の自己否定という、パラドキシカルな決意のなかにおいてである。

総じて否定とは、Aを否定してA以外の何かを肯定する結果に落着するものである。
ところが意志の否定の場合だけは、意志以外の何かを肯定するという結果は生じ得ない。

全宇宙は生きんとする意志であり、生きんとする意志以外のなにものも存在しないからだ。

では、どういうことになるのか。

この袋小路から抜け出るために昔から様々のことが論じられてきた。
しばしば、全存在の全否定は当然「無」であると主張されてきた。
しかしそう主張する者も、彼を包む宇宙も消えてなくならない以上、彼が「無」という言葉で表現しようとしていることは何なのか。

すべては関係性において存在しているからその本質においては何一つ存在していない(無、あるいは空)という有名な主張は、今の場合、当てはまらない。

全存在を全否定しようとする意志のエネルギーは、不可能な無に成ろうとして果たせないために行き場を失い、瞬間に反転して直ちに全存在の全肯定となるのではないか。

意志の否定は起こり得ないゆえに、どのような道を通ろうと、結局意志は最終的に肯定されるほかない。

しかし、このような意志が肯定から「無の壁」に激突反転して再肯定に舞戻る、一見徒労に思えるプロセスこそが、最初の自然的な意志の肯定(平均人)と自覚的な意志の肯定(野心家)の持つ宿命的欠点を改善するのではないか。

聖者の行状振舞いにおいて感動的に表現され伝わってくる、概念的認識を超越したもの(釈尊とイエスキリストがともに観て体験した一つのこと)…これを認識的にとらえようとする努力に常にあらわれる困難と混乱は、だれの目にも明らかに見て取れる。

概念で表わせないことを、直に言語化すると、たいてい夢のような茫漠とした表現、あるいは狂人の語る自家撞着的言葉に似たものになる。
日中の禅家語録は、そのような表現の一大集積だ。
表現上のあらゆる工夫を駆使して、なおこの分かりにくさだが、これには必然性があるわけだ。
「抽象的なことがらが人に理解されるのは、結局、世の中の人々の申し合わせにもとづいている」48 
概念化の手段(言葉、文法)は、平均的人々の平均的人々による平均的人々のための道具である。
きわめて例外的な、因果律に支配されない聖者の体験は、前提されていない。
平均的人々は、そのような体験を夢にも知らない。
だから、それを表現する言葉も文法も初めからない。

 さて、話はちょっと変わるが、矛盾を解消する簡単な方法がある。
自然の大いなる意志と人間の意志とを別物とみなし、人間意志が自然の衝動的意志を否定し、支配しようとする奮闘によって完璧に自由な境地まで、自力的に連続的に成長していく。
こう、対立図式的に理解すればどこにも齟齬はない。

ところが、これこそショーペンハウアーが「ペラギウス風な下衆の浅知恵を好む粗野平板な見解」70 と嘲笑したものだ。

じっさい、聖者の行状を多少でも知っているなら、この対立図式的説明が肝腎の事実に反していることに気づかないわけにはいかないだろう。

意志の否定はおのずと成る。
主体的にいえば、それは他動的にそうさせられる。
(ここに、超越的人格神が出てくる心理的装置がある)

ショウペンハウアーはこれを説明して「認識の仕方の転換」であるという。
それはもはや、普通の意味での認識ではないともいう。68

「苦悩を出発点としてそこから意志の否定が生じるのは、原因から結果が生じるような必然性をもって起こることではけっしてなくて、意志はどこまでも自由である。ここにこそ意思の自由が直接的に現象のうちに出現する唯一の点がある」68

苦しみ悩めば、間違いなく救われるというわけのものではない。
ただし、悩むべきときに悩みも苦しみもしない者は救われない、ということは確実にいえる。

釈尊は、生病老死という真に悩むべき唯一の悩みを、かって地上に存在した誰よりも誠実に悩み抜いて、ついに救われ悟ることができた。
人間の正しい出発点と正しい方向と正しい目標を、あらゆる聖者の中で、釈尊は最も的確にコーチングした。
宇宙は有限?無限?世界のはじまりは?死後の世界は?等の形而上学的議論をいっさいするなと釈尊ははっきり教えた。
解脱のために有害なことを知り抜いていたからだ。(釈尊の獅子吼『毒矢の喩え』の教え)


信じられないほど多くの人が、間違った出発点から、ありもしない目標に向かって、間違った方向に出発している。

われわれは、まず正しい出発点に、あらためて立ち直すことから始めないと、どうにもならない。
人間の責務は、ほかには考えられない。


以上で1、平均人 2、野心家 3、聖者 を、ひととおり書き終わった。