今日は、なにも思いつかない。
ので、またショーペンハウアーに戻ります。
「野心家」の最終形について。
野心家は、個別性の迷妄を打ち破るにしたがって「正義の人」となることはすでに述べた。
この傾向が大詰めまで進むといかなることになるであろうか。
「ある人が他の個人と異なっていることとか、他の人が背負っている苦悩を自分は免れているといったことは、現象の形式、「個体化の原理」にもとづくことにすぎぬ。事柄の真の本質からみれば、人は誰でも生きんとする確たる意志であるならば、いいかえれば全力をあげて生を肯定しているのであれば、世界のありとあらゆる苦悩をわが身の苦悩とみなすべきであるし、それどころか今後起こり得るすべての苦悩をも、わが身にとって現実的な苦悩であるとみなさなくてはなるまい」(「意志と表象としての世界・正編」第六十二節。西尾幹二訳・中央公論社。以下 62 と表記)
この境地こそ、生きんとする意志をあくまで肯定する地上的道徳の最高形式である。
この感情が宇宙大に拡大されて、
小宇宙たる自分のエゴが、大宇宙たる自然の大いなるエゴと一如であると理解するとき、人間は「意志の肯定」の最高段階まで登りつめたことになる。
精神は自力的努力だけで、じつにこれほどの高みにまでたどり着くことができる。
ウパニシャッドの聖仙たちは、この大宇宙こそ真の自己であると如実に悟ることのできた場合は、絶対的自由を得ると主張している。
しかし、この段階でも「生きんとする意志がその内部において背負わされている自家撞着」61 に対する深刻な反省と批判は、まだ充分に現われたはいえない。
たとえば、聖典『バガヴァッド・ギーター』を見よ。
戦闘を中止しようとためらうアルジュナ王子に、迷うことなく殺戮を続けるよう説得するくだりで見せる、神クリシゥナの一種冷血な楽天性は、このことを証拠立てていると、おれは思う。
長くなるので、続きは明日。