聖なる行為の意味を伝達するとき、イエスキリストはユダヤ教のドグマを通じて語らざるを得なかったし、釈尊はバラモン教のドグマを借用せざるを得なかった。
両聖者の教えは、まったくあいいれない敵のように(とくに厳格な一神教の形態をとるキリスト教サイドから)見られてもきた。
しかし、
イエスキリストと釈尊は、互いの存在を知らなかったが、両者の、世界に対する姿勢には不思議な一致がある。
二人の聖者の行状から推理するとき、両聖者の人々に対する思いは、同じではなかったか。
包まれた包装紙の絵柄はちがうが、贈りものの中身は同じだと、おれには思える。
https://philosophy.blogmura.com/buddhism/ ← にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ