哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

ショーペンハウアー4

さて、2番目の野心家について。
まず悪人から。

サドの小説のなかに、太い単純な輪郭で描かれる主人公たちは、正にここでいう悪人にあたる。
彼らが個別性の迷妄を毫も疑わず、自分と自分以外の存在者の間の完全な区別に固執するさまは幻想的でさえある。
なにしろ、女は自分で生んだ赤ん坊を平気で暖炉にくべてしまう。

しかし現実の悪人は、サドの創造したキャラクターほど冷血で首尾一貫したものではなく、もっと人間的で悩み多き者たちであろう。
現実の悪人とは、誰もがもっている生きんとする意欲が並外れて強く激しいため、平均人のようにそれが自分自身の身体の肯定だけではおさまらず、他の個体の意欲を否定するところまでいく人間のことをいう。
当然生じる他人とのトラブルの中で、自己の本性に対しても無自覚でいることはもはや困難になる。
自己のエゴイズムに明確な自覚があるかないかという程度の差で前者を悪人、後者を平均人と呼び分ける。

 「どはずれた歓喜を覚える人物はまた激しすぎる苦痛をも味わわないわけにはいくまい。というのもこの双方は一つのことの表と裏であって、ともに精神の大きな活気を条件としているからである」
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 さまざまにやって来る苦痛のなかでも、なにものにもかえ難いこの肉体と意識(「私」)が滅び去らねばならないことこそ、自分にとって最大の苦痛である。
エゴの個別性という二重の錯覚を、積極的に肯定した悪人の生きんとする意志は、どうやっても避け得ない死によって自然から絶望的に裏切られる。
そうなる原因を、彼は自分の外界に探しだそうとするが無駄に終わる。
真の、また唯一の原因は、彼が錯覚によって初めから内部に抱かえていた自家撞着にある。
外部に、彼がその時々に発見する原因らしく見えるものは単にそれが現われる機会因にすぎない。

悪人は、個別化の迷妄から自由になるにしたがい「正義の人」となる。
しかし、彼はまだ意欲を自覚的に肯定する点で、悪人とともに野心家と呼ぶべき同じレベルにある。
野心家の頭脳は、意欲とわかちがたく結ばれているものにすぎない。

「認識はほとんどつねに意志にまるめこまれている」65

理性は、意欲に誘惑され、説得され、結局ほとんど常に屈服する。

理性は、今や屈服した我が身を取り繕い弁護するためだけに働く。
意欲を肯定した理性は、苦を厭い避けることが自己矛盾となるので、逆に苦を安直に(つまり通俗的なやり方で)神聖化する。

たとえばこうだ。
「苦あってこその楽しみなり」故に「苦は我が楽しみの一部なり」と彼らは厳かに宣言する。
意欲を肯定する者は必ず苦をも肯定するはめに陥るのだ。

今や欲望の召し使いとなり果てた理性は、苦が人生を十全に味わうために不可欠の要素と認め受け入れた。
つぎに、それを大人として立派な姿勢だ、男らしい態度だ等々の自己賛美で飾り立てる。

「楽は我が苦なり」という聖者に対して、野心家は「苦は我が楽なり」という。