哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

ショーペンハウアー3

ショーペンハウアーは、1番目の平均人については苛烈な口ぶりになる。
しかし、それだけ取りあげて人類全体に対するショーペンハウアーの人間観だとするのは、誤解である。

彼の人間観の真髄は、3番目の聖者にある。
人間は当然聖者になるべきだ
ショーペンハウアーは主張しているとおれは思う。
なぜなら、人間の救いは、そこにしかないからだ。

平均人については、ここでまとめて論じておくことにする。
まず平均人の特徴を確認しておこう。

 「世の中には、自分のうちに現象している意志が弱いためにただ善良らしく見えるにすぎないような人々がいる。しかしこういう人々は、正しい善い行為を実行するに足るだけの十分な自己克服の能力をもっていないことでたちまち正体を暴露してしまうのである」(「意志と表象としての世界・正編」第六十六節。西尾幹二訳・中央公論社。以下 66 と表記する)

 つまり平均人は意欲の弱さによって野心家と区別される。
また、自分から法律上の不正に手をそめることはあまりないという点で、「正義の人」と境界を接した存在である。

 「一般に最大多数の人々は他人の数しれぬ苦しみを身近に知っても、もしこれを緩和してやろうとすれば、自らがいくらか不足を忍ばねばならないので、そういうことをしようとは決心しない。つまりこれらの人々にとってはいずれも、自我と他我の間に巨大な区別が存在するものと思われているのである」66

 個別性の迷妄という点で平均人と悪人は共通している。
平均人は、いわゆる悪人然とした悪人に比べるとむしろ罪のない善人に見える。
しかし、それは彼らの意欲がそれほど活力がないからにすぎない。
それゆえ、自己の本質に対して無自覚でいることもできる。
ショ-ペンハウアーによれば、平均人と悪人の違いは、自分の悪の傾向に対する自覚があるかないかということだけなのだ。


以上が平均人の主な特徴である。このような人間の人生はいかなるものになるか?
 「彼が最初に努力するのは自己保存であるが、それへの心配をすませてしまうと、ただちにおこなう次の努力は、端的にいって種族の繁栄である。人間は単なる自然状態の存在であるかぎり、努力できるのはせいぜいそれくらいのことであろう」60
 「信じえないほど大多数の人間は、その本性からして、物質的な目的のほかいかなる目的をもつ能力ももたないし、いな理解する能力すらもたない」(主著第二版への序文)
「大多数の人たちにとっては、純粋な知的な喜びなどは近づくすべもないことなのだといえよう。大多数の人たちは純粋認識のなかにひそむ喜びを味わう能力をほとんど持ち合わせていないのである。彼らは欲へと向かうように全面的に指図されている」57
 「彼の思考が関係してくるのは手段の選択の場合だけである。ほとんどすべての人間の生活とはこのようなものである」60

 平均人に人気のあるエンターテイメントな通俗小説や興業的に成功する映画が、人々の知的な認識能力を当てにする部分が少なく、人々の欲望を当てにし、これを刺激することで面白いと思わせる部分が多くなっているのももっともなことなのだ。
 また美術品投資に対する平均人の反応などを見ていると、どうも彼らは美の理解ということを、海外旅行をしたり別荘をもったりすることと同類のぜいたく事のように心得ているらしい。
平均人には美というものの存在さえ、たいして信じられていないと疑わせるふしがある。
ショーペンハウアーがこの点について人の意表をつくなかなか面白い例をあげているので、ついでに紹介しておく。
 「たとえば彼らは名所などを見物に行って、そこに自分たちの名前を書きつけたりするであろう。これは名所の方が自分になにひとつ働きかけてこないので、逆に自分の方から名所に働きかけようとしているためなのである」57

 さて、ショーペンハウアーの舌鋒はさらに鋭くなる。
「最大多数の人々は、あたかも時計が、発条(ぜんまい)を巻いてもらって、自分ではなぜだか分からぬままに動いているというのにも似ている。一人の人間が生殖をうけ誕生してきたそのたびごとに、人生というこの時計はあらためて発条を巻かれることになり、これまで無数回すでに奏でてきた琴の曲を、一楽節ごとに、一拍子ごとに、くだらない変奏曲などをそえて、いまいちど最初から演奏をくりかえすというようなことになるのだといえよう」58

 平均人は死によっていやおうなく自分から脱却させられるその臨終の瞬間までけっして彼自身の個別性の迷妄から免除されない。
けっきょく最後は一人の例外もなく強制的・暴力的にこの世から引き離される。
それは、誰知らぬことなき常識とされている。
しかし、その森厳な事実と対峙することで引き出されるはずの心得が、日常において善き効果を発揮することは皆無に近い。

個別性の迷妄によって、平均人が自分自身であると盲信しているものの確実さを疑わせるように見えるあらゆる認識は、半ば意識的半ば無意識的に黙殺され無効にされている。

たとえば、若き釈尊をあれほど苦しませた生病老死の悩み、釈尊を、悟りにまで導いた聖なる不安を、平均人はどう考えているだろうか。
「万人に共通で、人間生活から切り離せないような禍いならば、われわれは心をあまり暗くすることはない」65 という不可解な心理ひとつで、いとも簡単に忘れてしまうのだ。


平均人の認識は、意欲のための認識、意欲の手段としての認識としてのみ現われる。
それ以上の深い内省といったことは、彼らをただちに落ちつかなくさせる。
なぜなら、そのような自己の内側に認識を向け意欲自体を是非する試みは、平均人としてよって立つ彼の足場をこわしかねないからだ。
平均人には、こういうことが通常けっして起こらないことによって、正に現にあるとおりの気質であり続けられるわけなのだ。

このような哲学的試みが、平均人にはなにか不吉な精神病の前兆のように感じられるのも、彼らにしてみれば当然であるわけだ。
自身の被害妄想によって、自分の現在の気楽な日常を捨てるように強要してくるように見えるものは、それが立派な内容であればなおさら黙殺されるのだ。

 かくて、平均人の人生の特有性をまとめると次のようになる。

生活自体に存在の意義が欠落していること。
(たとえば、老いや死は言葉としてのみかろうじて知っているだけで、その実際の恐ろしい意味は知らなかった、昔のおれ)

そのことへの反省が欠けていること。
(知らないという事実にも気づいてはいなかった)

唯一の覚醒の契機である不安への、自己破壊的な対応。
釈尊を、悟りにまで導いた聖なる不安を、平均人はどう考えているだろうか)

 都会では大勢の平均人が会社人間として、与えられた仕事か、さもなければ気晴らしで無数の一週間を、機械のような勤勉さで塗りつぶしていく。
そして彼らの大部分がそれを定年まで続けたあと、ぼけ老人になるまでの期間を、またしても老人向きに用意された気晴らしで塗りつぶす。
このような生活は、人間存在としては緩慢な自殺だ。