哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

呼吸の快感のもやもやした苦しさ(一切皆苦)


呼吸が苦しみだと実感できた時のメモ。

 外気を吸い込む時、始めのうちは心地よさがある。

しかしこの心地よさは錯覚だ。

吸いきった時、その「心地よさ」は完全に消え、なんともいえないもやもやした苦しさが現れるからだ。

苦しさに耐え切れず息を吐く。

吐く時は吸う時ほどの「心地よさ」はない。しかし苦しみはひとまず薄れていく。

吐ききった時、再びあのもやもやした苦しみが現れる。

苦しさに耐え切れず息を吸う。

(最初に戻る。この繰り返し)



ヴィパッサナーは
「さとりたい」と思ってやる者より「この苦しみを無くしたい」と思ってやる者のほうがずっと早く成長する

と、説かれている。

おれが以前からひかれていた浄土系の、厭離穢土を強調するアプローチは、その意味では正しいのだと思う。

ともかく、日常世界の強固な錯覚妄想を排して、呼吸が苦しみであるという事実の実感を大切に守り、この苦しみから逃れようと一心不乱にヴィパッサナーを続けるしかない。









※「ヴィパッサナー瞑想
http://www.j-theravada.net/4-vipassa.html

※「日本テーラワーダ仏教協会」公式サイト
http://www.j-theravada.net/

 

 

 

 

 

 

 

 

 (My Favorite Songs)

 

小柳徹
「俺あ三太だ!」

 

子供時代のテレビ主題歌は、今聞くと「なんじゃこりゃ」という曲ばかりだ。しかし「おらあ三太だ!」「おらはおとおにちょっぴり弱い」…無意味な鮮明さで覚えているなあ。


三太物語

 

(過去記事統合増補編集再録)

アルボムッレ・スマナサーラ師のヴィサッパナー実践&慈悲の瞑想

 

 

 

イメージ 1

イメージ 2

もう13年も前になるが、東京滞在6日間のうち3日、
テーラワーダ仏教寺院に通った。

2日目に、幸運にもヴィパッサナーの歩く瞑想の指導を少し受け、
実際に1時間以上自分でやってみることができた。



「ヴィパッサナー実践&慈悲の瞑想」DVDを買ってきたので、
家に帰ってからは、手の位置、足の運び方など、
初めのうちは何度も観て確認しながらやった。

このDVDは「今では入手困難という事で期間限定で公開します」というひとがいて、
YouTubeで観ることができる。

 

 

 ヴィパッサナーは実際にやってみると、
期待したような手応えはなかなか得られない人が多いようだ(おれもその1人)。

うまくいかない原因ははっきりしていて、まだまだ真剣さが足りないからだ。

ヴィパッサナーを試す時は、一心不乱に真剣に、しかも肩の力を抜いて
(これが難しい)臨んでください。

ヴィパッサナー瞑想との相性が生まれつき非常に良い人もたまにいる、
そういう人ならあんがい1回で自得できるかもしれない。






 おれはもう他にやりたいこともないので、あまり成果に拘らずに
ヴィパッサナーをとにかくやり続けるつもりでいる。

 

 

 

 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 (My Favorite Songs)  
 
中村晃子
「虹色の湖」 

この曲、この歌手もなぜか強く印象に残ってる。
 
 
(過去記事統合編集再録)

1+1=2並にはっきりした話。苦に夢中なら苦から解脱できっこない

 大多数の人間は、煩悩が苦でしかないと知っても、煩悩を渇望することを決して止めない。

煩悩に動かされないでいるとすぐに耐え難い退屈という禁断症状に苛まれる煩悩中毒だ。

全身全霊で五蘊の奴隷になっている。

さらにその煩悩中毒者の自分達を誇っている。


こんな苦に夢中の人間は当然苦から解脱できないと、ブッダは明言している。

 

1+1=2並にはっきりした話ではないか。

 

(相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻39頁64項)HP「ターン・プッタタート」ブッダの言葉による四聖諦・完全版『五蘊は知り尽さなければならないもの』より引用させていただきます。

 

 比丘のみなさん。形に夢中になっている人は、
その人は苦であるものに夢中になっているのと同じです。
私は「苦であるものに夢中になっている人は、
当然苦から解脱できない」と言います。

 比丘のみなさん。受に夢中になっている人は、
苦であるものに夢中になっているのと同じです。
私は「苦であるものに夢中になっている人は、
当然苦から解脱できない」と言います。

 比丘のみなさん。想に夢中になっている人は、
苦であるものに夢中になっているのと同じです。
私は「苦であるものに夢中になっている人は、
当然苦から解脱できない」と言います。

 比丘のみなさん。すべての行に夢中になっている人は、
苦であるものに夢中になっているのと同じです。
私は「苦であるものに夢中になっている人は、
当然苦から解脱できない」と言います。

 比丘のみなさん。識に夢中になっている人は、
苦であるものに夢中になっているのと同じです。
私は「苦であるものに夢中になっている人は、
その人は当然苦から解脱できない」と言います。

(引用終)






(以下、ショーペンハウアー「幸福について」2 橋本文夫訳より引用させていただきます)

人間の幸福に対する二大敵手が苦痛と退屈である…
この二大敵手のどちらか一方から遠ざかることができればできるほど、それだけまた他方の敵手に近づいている…

困苦欠乏が苦痛を生じ、これに反して安全と余裕とが退屈を生ずる。…
文明の最低段階である流浪の生活が、文明の最高の段階に見られる漫遊観光の普及を通じて再現されている。流浪の生活は困苦のために、漫遊観光は退屈のために生じた。

(引用終)



週末のアウトドアレジャーなどにも、そういう奇妙な再現があると思う。

ショーペンハウアー(同)
われわれの実際の現実生活は、煩悩に動かされるのでなければ、退屈で味気ないものである。さりとて煩悩に動かされれば、忽ち苦痛なものになる。
(引用終)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  (My Favorite Songs)   

とうとうレナウン倒産しちゃった。

弘田三枝子の「ワンサカ娘」
おれ、このCMソング、

異常に好きだったな。 


ワンサカ娘'64

 

 (過去記事統合増補編集再録)

苦聖諦の理解に関して迂闊でない人

(スマナサーラ長老著「死」は幸福のキーワード: 「死隨念」のススメ より引用させていただきます)

 世の中では、「死」というと何か不吉なもの、恐いもの、不幸なものというとらえ方が一般的だと思います。仏教はまったく反対です。「死」という単語自体、幸福のキーワードなのです。「死」は幸福、これはもう紛れもない事実だとするのです。お釈迦様は、出家に「死を観察しなさい」とおっしゃいました。日本語では死随念(「死の瞑想」)と言います。「どんな生命でも死ぬ」ということを、自分なりに観察するのです。本書では、この「死随念」の考え方と実践方法を詳しく解説します。皆さんも、幸福な人生のために、日々の生活の中で、理性に基づいて、しっかりと「死の観察」をしてみてください。
(以上)

(パティパダー巻頭法話No.234より引用させていただきます)

 ひとは誰でも、死ぬのは怖いのです。死にたくはないのです。決して叶わない希望なのに、その希望を捨てがたくて苦しむのです。心は決して成長しないのです。それなら勇気を出して、「生命たるものは皆、必ず死ぬのだ」と死を観察するのです。死随念と言います。
ニコニコ動画死の瞑想(死随念)スマナサーラ長老

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

プッタタート編訳「ブッダの言葉の宝庫」より
死に関して迂闊でない人
を要約して引用させていただきます。
正確な原文はリンクを参照してください。

 

 ある時、ブッダが比丘達に、大きな功徳があるマラナサティ(死隋念)を「どのように実践しているか」と訊ねました。

比丘A 「今日だけ、今晩だけの命かもしれないと思い修行に励みます」

比丘B 「昼の間しかない命かも知れないと思い修行に励みます」

比丘C 「托鉢して食べ終わるまでしか命がないかもしれないと思い修行に励みます」

比丘D 「ご飯を四、五口食べ終わるまでしか命がないかもしれないと思い修行に励みます」

比丘E 「あと一呼吸しか命がないかもしれないと思い修行に励みます」


ブッダは、比丘A、B、C、Dは「まだ不注意な人」「まだ漏の滅尽を遅らせるためにマラナサティをしている」と言い、比丘Eだけを「油断のない人」「本当に漏を滅すためにマラナサティをする人」と褒めました。

(要旨引用終)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大きな功徳があるマラナサティ(死について思うこと)の正しい実践とは

 

 

 

あと一呼吸しか命がないかもしれないと思い

修行に励む

 
ことです。

 

 

 これは微塵も誇張表現を含んでおらず、至極当然の事実をそのまま言っているだけだ。
これ以外の態度
「今日だけ、今晩だけの命かもしれない」
「昼の間しかない命かも知れない」
「托鉢して食べ終わるまでの命かもしれない」
「ご飯を四、五口食べ終わるまでの命かもしれない」等
の隙間のある思いで修行に励んでも、全て注意不足であるため、いくら長くやっても真の結果は得られないからだ。

 

 

 

 

 もう一度言う。
これは厳しいとか難しいとかいうことではなく、誇張でもなんでもなく、ただ事実は正確にこうだよと親切にブッダが教えてくれている。

 

 

 

 

 

 

 

カンポン・トーンブンヌムさんは「死に関して迂闊でない人」だったので、はっきり結果を出すことができた。 

kidukikokyuu.hatenablog.com

比丘A、B、C、Dのように注意不足でいくら長くやっても何も結果は得られない。

やるならたとえ短くても、比丘Eのように、カンポンさんのように、少しも油断なくやる必要がある。


 現状、比丘Aの真似さえ難しい人が大多数なのは、苦聖諦の理解が足りないからだ。だからまず、苦聖諦を学ぶ必要があるとおもう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ちなみに、 瑩山禅師・坐禅用心記

           一息截断、両眼永閉の端的に向かって打坐

の教えの大元は、このブッダの死随念説法

           死に関して迂闊でない人

にあるとおもう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
(My Favorite Songs)   

 

 

 
 
 

 

 

 
 
 
(過去記事統合編集再録)

 

欲の犬を放し飼いにするな

 仏戒は守りがたいが、敬い守ろうと務めることが大事だ。
破れかぶれになるのは最悪だ。
やらかしてから「酒のせい」←大嘘だから。

欲の犬を放し飼いにするな。

 

 

 
やらかしてから「酒のせい」←大嘘だから。
欲の犬に関するこの主張を敷衍したいので、最近書いた関連過去記事2020/2/14再録します(このころまではまだギリ長閑だったんだな~。この後加速度的に異様なコロナパニック世界に暗転した)
 
 

 

 週一のウォーキング会終了後、メンバーの一人とコーヒー飲みながらしばし空談するのが最近の恒例になっている。


 Aが新聞の投書欄か何かの記事を見ながら
「酒はほろ酔いで止めるのが良い。それ以上どん欲に追い求めても増える楽しみはあとわずかて書いてある。ほんとにそやな」

おれ
「それ、みんな分かってるとおもうよ。だーれも守れへん。飲んでしまうんやさ」


「ほんとにな、最初のうちはワイワイワイワイ楽しいやっとるけど、そのうち酔うてきたら喧嘩、言いやいする奴は出てくるし、下手したら取っ組み合いすんのが出てくるでな。おいらでもよう忘年会とかあんなんさ、必ず騒ぐ奴が出てきとったでな、喧嘩して」

おれ
「だから忘年会とか懇親会とか、みな酒飲む会やんか。そこはほんとに根本が間違っとるから。
もうお釈迦さんなんか一切飲んだらあかん云うとるんや、一滴も。飲んだら止まらへんのやから。そんなことは途中で止められるくらいなら苦労せえへんちゅうんや」


「そやなあ、麻痺するんやね。なあ」

おれ
「そやけどそれは守れえへんもんな。おれかて飲んでしまうもんな、そんなもん。いかんと思とったってやってしまう…止められへんぞ。止められると思とるから大間違いや。止められへんのやて」


「なんでもそうやに。なんでもそういうやつはさ、あのーアルコールとかなんか…なあ、適度なところで、人間ちゅうのは止められへんのや…ほどほど。ほどほどにせえへんのや」

おれ
「ま、ひとの事やでどうでもえーんやけど、不倫とかさ、あんなんかて、やったら大損する、どえらいことになるて分かっとってやってしまうんやろ。あれ止められへんのやぜ。
アッホやなあ云うとるけど、いざ自分の番になったらやってしまうんやから。それが人間やから。もうその時は理性がマヒしてしまうんや」


「勝負事なんかも…そのうち勝つんとちゃうか、これが当たるんちゃうか…」

おれ
「そう、ギャンブルも一緒。みんな一緒。欲はみんな一緒。酒も一緒。
みんな途中で…おれは、ええとこで止めれると思とんのやさ。あれ、大間違いや」

…………………………………………………………………………



「来年数えで70や」

おれ
「おれもや。70やで。無茶苦茶や。おれ、こんな子供やのに、なんで70や。中身子供やで、おれ。どうすんのこれっておもって。…歳だけや」



「ほんとにそやな。そやっておもっとる人、ようけおると思う。ここで二人おって二人がそやって思とるんやでさ、ねえ、十人おったら、なんちゅうの、気持ちは…ねえ」

おれ
「いや、それはわかるよ。世の中なに…変なこと起こっとるやん。70くらいがわっかい女に手えだして、なんか…自分の家庭も相手の家庭
も無茶苦茶にして「歳のとり甲斐もなく、すいません」とか云うとるやん。あんな連中子供やんか、あれ。あんな、分かっとって不倫してあんな無茶苦茶になる、あれ賢そうにしてるけどアホやん。あれ子供やん」


「成長いうのもあれやし…歳いったように思えへんし、気持ちはな…」

おれ
「思えんのがいかんのやけどな。ほんとは歳相応にならなかんのやけど、おれいまだに子供やもんな。あかんわ。…身体だけ完全に年寄りや。こんな状態ではこれ生きてけえへんなと思うぐらい酷いんやさ」


「歳いってないように思いたいのか…まあ思いたいんやろな」

おれ
「無駄なことやけどなあ。思いたいったって思えへんのやから、ほんとは。違うんやから。…もうそれどころか、みな俺だけは死なへんくらいに思とるからな。他の奴は死ぬけど俺は死なへんと思とる。
…自分が死ぬちゅうイメージがでけへんのやさ。
そこが子供やちゅうんや。それができるのが大人やけど、それがでけへん人が圧倒的に多いから、ほとんどの人が実は子供やちゅうことなんや。…なっとかなあ、そっから脱却したいんやけどなあ。このままでは死んでも死にきれーへんもんなー。こんな子供のままでは。もうちょっと大人になりたいわ思うけど、なっかなか…いまだに欲望に振り回されとる状態やでなー。
…これ、おれなんかもてへんもんで、そういう不倫もなにもあらへんけどさー、おれ、これ、そういう状況に置かれたら完全にやってしまうでな。もう分かっとんのや、自分で。もーほんなもん、最低やもん、思とることは。もうあかん。もうじき死ぬのに、こんな状態で死ねるかーと思って。
…そうならんようにせないかん「年甲斐もなくすみません」みたいなことは死んでも言いたないわ」

 














 

 心は、猿のように外界に飛び出して、あそこにいるかと思えばここに飛び、ここにいるかと思えばまた別の場所に飛んでゆく。

この猿を、しっかり自分の内面に縛り付けておく練習。

この練習を楽しんでやれるようになって初めて、大人だ。

世間では、子供が年を取れば大人になると思ってるが、そんなずうずうしい話があるか。

死んだら仏になるというのと、ずうずうしさと無知において共通した話だ。


子供が年取るだけでなれるのは、

年食った子供だよ。

大人になりたい!死ぬ前に!

 

 

(過去記事統合増補編集再録)

 

私たちは苦しみによって生かされていますが……

 
 
 
 私たちは苦しみによって生かされています。
これはありのままの事実です。
 
だからといって
「わたしたちを生かしてくれてるから、苦しみはありがたい」
ではないのです。
こういうくだらないマゾヒストにならないでください。
 
苦しみはありがたいと言いたいなら、ブッダのように
「俺・俺のものは捏造だと気づかせてくれたから、苦しみはありがたい」
と正しく言ってください。言えるようになってください。
 
 
 
アルボムッレ・スマナサーラ長老「仏教の八不思議(パラーダ経)」より引用します。
……………………
 お釈迦様が2550年以上も前に「大発見しました」と言って最初の説法で説いた教えは、四つの聖なる真理、つまり四聖諦でした。
四聖諦の第一番目は「生は苦である」という苦の真理です。
……………………
 お釈迦様が発見された「四聖諦の苦」とは何でしょうか? 
 厳密に言いますと、私たちは「苦」があるから生きています。生命が生かされているエネルギーは「苦」なのです。たとえばお腹がすいたとき、もし「気持ちいい」と思ったら何も食べないでしょうし、食べなければ死んでしまいます。お腹がすいたら苦しい――だから食べるのです。「食べたい、食べたい! 」というすごいエネルギーが湧いてきて、食べざるをえない状態になります。このように「苦しみ」が「食べたい」というエネルギーを生じさせているのです。
 そこで、何かを食べようとして、もしそれに味がなかったりすると、今度は「おもしろくない、いやだ、まずい……」などと不満を感じるでしょう。味がないものは、お腹がすいていてもあまり食べる気にはなりません。これもまた苦しみです。それで調理法や味付けをいろいろ変えて、苦しみをなんとか消そうとするのです。
 立っていると苦しいから座り、座っていると苦しいから立ちます。息を吸ったら苦しいから吐き、吐いたら苦しいから吸います。
 家にいる時なぜテレビを付けるかというと、退屈だからです。退屈は苦しみでしょう。部屋にいるとき、楽しくて楽しくてたまらなかったら、テレビは付けません。つまらないから、付けるのです。
 では、なぜテレビを消すのでしょうか? 番組がおもしろくないか、つまらなくなったからです。ほら、苦しいでしょう。ですから、テレビのスイッチを入れるのも苦しみがあるからですし、消すのも苦しみがあるからなのです。
 外出するときにもテレビを消しますが、これも同じ苦しみが原因なのです。付けっぱなしで出かけることは不安材料になります。おもしろい番組を見ているとしましょう。でも、外出する時間になります。そのとき、「遅刻したら大変!」というちょっとした恐怖感が起こるのです。番組自体はおもしろいのに、「遅刻する」という恐怖感が優先してしまい、テレビを消さなければならないのです。このように調べると、人のいかなる行動についても、それらは苦しみがやっているという事実が発見できるでしょう。
 このように、私たちは苦しみによって生かされています。食べるのも、運動するのも、おしゃれをするのも、結婚するのも、人間関係を築こうと頑張るのも、なんでもかんでも苦しみがやらせているのです。その苦しみは天にあるのではなく、私たちの身体に具体的にあります。「楽しいからごはんを食べる」というのは間違いで、それはその人の観察能力が乏しいだけ。ちゃんと客観的に観察するなら、「空腹という苦しみがあるから食べる」ということが発見できるでしょう。
 今も皆さんは手足を動かしたり、首を傾けたり、髪の毛を触ったり、いろいろ身体を動かしているでしょう。それは苦しいからです。なんとなく気持ちが落ち着かないか、気分が良くないか、しっかりしていないから、動くのです。どんな小さな動きも、苦しみがやらせているのです。
 そこで、他宗教が「生命を生かしているのは絶対神だ」と証拠もない概念を語っているのにたいし、仏教は「苦」という誰でも具体的に立証できる事実を教えています。この事実を知るだけでも、私たちはどれほど楽になるでしょうか。どうか神様助けてくださいとお祈りすることはなくなりますし、お金があったら幸せになるからガツガツ儲けるぞといった、あの途轍もない欲望も苦しみも一発で消えて、いきなり心が穏やかになるのです。
 ですから、お釈迦様の教えというのはこの上ない宝物です。唯一の宝物なのです。金銀財宝などは心を汚すもので、宝物ではありません。
(引用終。強調は私です)

 

 
 
 
 
 
 おれは苦聖諦が仏教の正門であり、世界に比類のない尊い宝物だとおもっているので、今まで繰り返し繰り返し記事にした。いささかクドイかなと心配しつつも。

理解が広まった気配は……一向にない。

まあ、それ最初からわかってはいた。無理もない。おれ自身が眼高手低でもがいてんだから…

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 (My Favorite Songs)   
三橋美智也
「怪傑ハリマオの歌」

三橋美智也の澄んだ歌声は、忘れがたい。 
 
 
(過去記事統合増補編集再録)
 

親鸞聖人の三願転入

真宗聖典 仏説無量寿経巻下 曹魏天竺三藏康僧鎧訳より引用します)


仏、阿難に告げたまわく、「…あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん、心を至し回向したまへり。かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得て不退転に住す。唯五逆と誹謗正法とを除く。」

(引用終)





釈尊は『大無量寿経』(下)で十八願成就の文を明かしている。

つまり、全四十八願のうちで、信者にとって一番重要なのは十八願だと、誰が読んでもすぐ気づくように書いてある(とおれは思う)。


では、それを百も承知二百も合点していたはずの親鸞聖人は、なぜ「三願転入」という苦労の多いまわり道をしなければならなかったのか?


いきなり十八願を信じて救われる人が、本当にいるのか…正直、おれには分からない。


「三願転入」することによって、初めて十八願にたどりつく可能性が開けるタイプの人がおおぜいいて、このタイプの人にとって「まわり道」は実はまわり道ではなく、必然的な一本道なのだと思う。



おれには、十九願的な修行から入っていく道だけが与えられている気がする。(しかも、その入り口辺りでうろうろしているのが現状だ。やがて二十願の世界に移るとか、さらに十八願の世界に至るとか言われても、全くリアリティーがない)





【大無量寿経
浄土三部経の一つ。
「それ、真実の教を顕さば、すなわち『大無量寿経』これなり。」(教行信証・教)
親鸞聖人は『大無量寿経』を、三部経の中心に据えていたことは、この宣言から明らかだと思う。

三願転入
十九願から入って→二十願十八願に到達した親鸞聖人の宗教体験。

十九願
たとい我、仏を得んに、十方衆生菩提心を発し、もろもろの功徳を修して、心を至し願を発して我が国に生まれんと欲わん。寿終る時に臨んで、たとひ大衆と囲繞してその人の前に現ぜずんば、正覚を取らじ。(修諸功徳の願)

二十願
たとい我、仏を得んに、十方の衆生、我が名号を聞きて、念を我が国に係けて、もろもろの徳本を植えて、心を至し回向して我が国に生まれんと欲わんに、果遂せずんば、正覚を取らじ。(不果遂者の願)

十八願
たとい我、仏を得んに、十方衆生、心を至し信楽して我が国に生れんと欲うて、乃至十念せん。もし生まれずは、正覚を取らじ。唯五逆と正法を誹謗せんをば除く。(至心信楽の願)

 

 

 

 

 

 

 

 

 (My Favorite Songs)    

 

詩も曲も演奏も歌唱も全部すばらしい。


天城越え

 

(過去記事統合編集再録)