哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

人が所有できるのは、した行為の結果だけ

瞑想に励んで、ついに非想非非想処ひそうひひそうじょを体験するよりも、
 
諸悪莫作 衆善奉行しょあくまくさ しゅうぜんぶぎょう

の教えひとつを信じて生きるほうがはるかに優れていると、おれは思う。


※『非想非非想処
釈尊が出家してすぐに到達したきわめて高度な瞑想状態。

※『諸悪莫作 衆善奉行
諸々の悪を為すことなく、もろもろの善を行い、自ら心を浄くせよ、是が諸仏の教えなり。(七仏通誡偈)の前半部。






ブッダ 神々との対話 中村 元訳Ⅲ1・4)より引用します。

死に襲われて、人間としての生存を捨てつつある人にとっては、何が自分のものであろうか。

かれは、何を取って、行くのであろうか。

何が、かれに従うものであろうか。

ーー影がそのからだから離れないように。

人がこの世でなす善と悪との両者は、その人の所有するものであり、人はそれを執って〔身につけて〕おもむく。

それは、かれに従うものである。

ーー影がそのからだから離れないように。
 
 
 
 
(過去記事編集再録)

イギリス映画「ミス・シェパードをお手本に」

 

[ストーリー]より引用。

…北ロンドン、カムデンの通りに止まっている黄色いオンボロの車で暮らすミス・シェパード。近所に引っ越してきた劇作家のベネットは、路上駐車をとがめられているミス・シェパードに声をかけ、親切心から自宅の駐車場に招き入れる。それから15年、ミス・シェパードはベネットの家の駐車場に居座り続け、ベネットは、高飛車で突飛な行動をとるミス・シェパードに時折、頭を抱えながらも、なぜかフランス語に堪能で、音楽にも造詣の深い彼女に惹かれていく・・・。

 

 

 

 

 地味なイギリス映画の良さが珍しく出た、実話をもとにした作品。


 

 作家の母親が女特有の残酷さで
罪なきホームレスの老女を聞えよがしに辱める。
作家は、その時の母親を、次のように評している。


 罪人が見た目に騙されて、罪なき者に刑を下す。
ところが、のちにその刑を自分が与えられる。

 

 

 地味過ぎるストーリーと映像だが、なにか深い切ないものがじわっと心に沁みてくる。

 

 

 

怖すぎる旧約聖書

旧約聖書の言葉を。
 
 
 
イザヤ書45・6~10 新共同訳)より引用します。

わたしは主、ほかにはいない。

光を造り、闇を創造し
平和をもたらし、災いを創造する者。


わたしが主、これらのことをするものである。
 

……




災いだ、土の器のかけらにすぎないのに
自分の造り主と争う者は。

粘土が陶工に言うだろうか
「何をしているのか
あなたの作ったものに取っ手がない」などと。 



災いだ、なぜ子供をもうけるのか、と父親に言い
なぜ産みの苦しみをするのか、と女に問う者は。 

(以上引用終。強調は私です)








 旧約聖書この辺、ブッダの教えとの間に解消しがたい違いがある。

のみならず、旧約聖書はイエスキリストとの間にも解消しがたい違いがあると、おれは思う。
(ところが、新約聖書で、イエス自身が
 
天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。
(新改訳)
 
と言って、基本違いを全否定しているので、お手上げなのだが…)
 
 
 
 
(過去記事編集再録)

君は何を守ってる?如実知見の薦め

学生ドータカが釈尊に訴えた。
ブッダのことば5・6 1063,1064 中村 元訳)より引用します。
 
(学生ドータカ)
…あまねく見る人よ。
わたしはあなたを礼拝いたします。
シャカよ。
わたしを諸々の疑惑から解き放ちたまえ。



釈尊
ドータカよ。
わたしは世間におけるいかなる疑惑者も解脱させえないであろう。
ただ汝が最上の真理を知るならば、それによって汝はこの煩悩の流れを渡るであろう。

(引用終)


 他に方法はない。

自分を救えるのは自分だけだ。

自分でやる以外ない。

絶対ない。



師は答えた、
(同ブッダのことば5・6 1068 より引用します)
ドータカよ。
上と下と横と中央とにおいて汝が気づいてよく知っているものは何であろうとーーそれは世間における執着であると知って、移りかわる生存への妄執をいだいてはならない。
(引用終)


 本能は、生きものすべてに、その体を「俺、俺のもの」と信じさせる。俺のものなら必死で守るからだ。そのくせ、用が済めばポイ捨てされる。すべての生きものが、誰も望まないのに、必ず老い病気になり死ぬ。はなっからそういうプログラムなのだ。

君は一体何を守っていたのか?



だから、そのプログラムに真っ向から逆らえと。

具体的に、どうするか。


ブッダの感興のことば26・17 より引用します)
見られたことは見られただけのものであると知り、聞かれたことは聞かれただけのものであると知り、考えられたことはまた同様に考えられただけのものであると知り、また識別されたことは識別されただけのものであると知ったならば、苦しみが終滅すると説かれる。
(引用終)
 
見られたことは見られただけのものであると
ことさらそう思えと、ブッダは説いているのではない。
 
妄想をやめて事実を知れと説いている。
 
色・声~想・識すべてについて
見られただけのものであると知り、~
識別されただけのものであると知ったならば
苦しみが終滅する
と明言している。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(おまけ)
アラベスク
「フライデイ・ナイト」 
 
 
 アラベスクはドイツ出身。
(ちなみにボニーMも

 たとえばイギリスとアメリカの歌手は、それぞれなんとなくイギリスらしさ、アメリカらしさが感じられる(単純な発音の違いとかでなく、全体から受ける雰囲気の違いで)が、成功したドイツ出身のシンガーにはそういう意味のドイツらしさみたいなものがまったく感じられないのはなぜだろう。
たんに英語で歌ってるからというだけではない気がする。
 
 
(過去記事統合増補編集再録)
 

わたしが説かないことは説かないと了解せよ

ブッダの感興のことば29・5中村 元訳)より引用します。
(経験するものを)実質のある物だと思って、走り近づいて行くが、ただそのたびごとに新しい束縛を身に受けるだけである。
 
暗黒のなかから出て来た蛾が(火の中に)落ちるようなものである。
 
かれらは、見たり聞いたりしたことに心が執着しているのである。
(引用終)
 
 
 全ての動物がそうであるように人間の脳にも生まれながらにしてすでに、火の中に落ちる蛾に例えられるプログラムが埋め込まれている。しかし人間はそのプログラムに逆らって自由にふるまう可能性を持っている唯一の存在でもある。
 
ただし、人類の99%は、この人間だけが持っている自由を一度も行使しないで、動物の生死を選んで生死するのが現実だ。
この人間の惨状を法華経は、明珠在掌に気づかず、一生を終わってしまう乞食に喩えている。
 
 
 
 
 
 
(同26・17)より引用します。
見られたことは見られただけのものであると知り、聞かれたことは聞かれただけのものであると知り、考えられたことはまた同様に考えられただけのものであると知り、また識別されたことは識別されただけのものであると知ったならば、苦しみが終滅すると説かれる。
 
 
(同27・7,8)より引用します。
人々は自我観念にたより、また他人という観念にとらわれている。

このことわりを或る人々は知らない。
 
 
実にかれらはそれを(身に刺さった)矢であるとはみなさない。
 
ところがこれを、人々が執著しこだわっている矢であるとあらかじめ見た人は、「われが為す」という観念に害されることもないし、「他人が為す」という観念に害されることもないであろう。 
(引用終。強調は私です)
 
 
 
 脳で考える限り、言葉で考えており、言葉の考えは必ず「俺、俺のもの」に害され支配される。
これが(身に刺さった)矢であると気づいたなら、やがてブッダのヴィパッサナー実践法の意味と価値に気づく。
 
 
 
 
 
 ウパニシャッドと仏教は共通点が多い。

中でもバガヴァッド・ギーターの教えは類似点が多い。

同時代のジャイナ教と仏教も、言い回しまで含めて共通部分が多い。
 
 
 
 
だから、
わたしが説かないことは説かないと了解せよ。
(毒矢のたとえ)
という釈尊の教えが極めて重要だ。


釈尊独自の教えを知りたいと思う人は、釈尊がなにを説いたか以上に、なにを説かなかったかに注意しなければならない。
 
 
 
釈尊アートマン(霊魂)を説かなかった。

釈尊は「汝はそれなり」(梵我一如)を説かなかった。
 
釈尊は梵我一如的なアイデアを思いつけなかったので説けなかった、という立場を、おれはとりません。釈尊は人々が常に陥るこの種の迷妄をよく承知していました。
 
 世界中の聖者のなかで、「アートマン」(=我)は迷いだと明確に否定して、教えの根本に据えたのは釈尊だけだ。

この真理は、通常の思考パターンの中では理解できない。
 
 
世界中のすべての言語は(したがって思考は)、けっきょくのところアートマンが神となる構造を持っているからだ。
 
 
 
事実、世界の宗教はほとんど、このアートマンに乗っ取られている。

仏教の中でさえ、アートマン、「汝はそれなり」(梵我一如)は、仏性とか大我とか耳触りの良い言葉とともにリニューアルして、ゾンビのように執拗に復活してくる。
 
 
 
 
 
 
 
 
 他方西洋では、(おれはショーペンハウアーによって釈尊に導かれたのだが)ショーペンハウアー自身は仏教以前からの古代インド思想(ウパニシャッド等)に決定的触発を受けて生涯の主著「意志と表象としての世界」を書いている。
ショーペンハウアーは「汝はそれなり」を絶賛して自分の哲学に受け入れたが、「それ」を「生きんとする盲目の意志」だとした。
 
 
 
その「盲目の意志」の克服こそ人間の理想だと主張したことで、ショーペンハウアー哲学は釈尊の教えに適っていると、おれは思う。

「汝はそれなり」の意味を誤解しているという非難はあたらない。ショーペンハウアーは天才的洞察によって意識的に読みかえて正道を再現したのだから。

西洋哲学者のなかで、ショーペンハウアーただひとりが、梵我一如は真の悟りではないと明確に気づいていたと思う。
 
 

梵我一如とは、永久不滅全能唯一絶対神(大我)と個々の不死の魂(小我)は一緒というヒンズー教の主張です。

 

 

 

妄想2個の串団子。


梵我一如はブッダの悟りでも教えでもない。

大我と小我いずれも我に過ぎず、

それが一如だとて何の意味がある?
いったい何の意味がある?



ブッダはすべての我を虚妄と見抜いた。

 
 
 
ブッダの感興のことば15章 中村 元訳)より引用します。
ブッダの説かれたとおりに、呼吸を整える思念をよく修行して、完成し、順次に(諸の煩悩を)克服してきた人は、雲を脱れた月のように、この世を照らす。
 
 
もしも或る人にとって身体について真相をおもうことがつねに完全に確立したならば、その(「アートマン」という迷い)は存在しないであろう。…
この人は
種々の思いに順次に住する

から、やがて適当な時が来れば、執着(の流れ)を超えるであろう。

(引用終。強調は私です)
 
 
 
 
 静かな部屋に入って、思考を止め、呼吸を整え、アートマンは迷いと知って、ただ「種々の思いに順次に住する」修行ヴィパッサナー実践法は、人間だけが成しえる奇跡だと思う。
 
 
 
(過去記事統合増補編集再々録)

在宅出家 人生はかくのごとくシンプル

ターン・プッタタート家で出家する(在宅出家の仕方)より引用させていただきます。
 
 雌鶏はね、卵を温める時しっかり温めるだけで、ヒヨコが生まれることを考えません。雌鶏は自然な方法で正しく卵を抱き、土を引っ掻いたり、卵を抱いたり、向きを変えたり、温めたり冷ましたり、そうすれば、雌鶏が「生まれなさい、生まれなさい」と期待しなくても、ヒヨコは自然に生まれます。ヒヨコが生まれることを期待して、「生まれなさい。生まれなさい」と念じている雌鶏がいれば、それはどうしようもないバカな雌鶏です。

人も同じです。「俺、俺のもの」である期待の考えをしないで、その行動に関わる知性で正しく働いてください。「生まれろ」、「出て来い」、「結果が現れろ」、「手に入れ」、「儲かれ」、「こうなれ」、「ああなれ」というのは、「俺。俺のもの」の話なので苦しいだけです。


 自然の法則で正しくすれば、自然に結果が出て来、期待ですれば散漫になります。簡単な例は、宝くじを買っても期待で精神病にならないで、買ったら買っただけにし、時が来たら当たっているか外れたかを調べます。しかしこういうのが好きじゃない人がいて、買ってくるとバカになって期待し、座って期待し、寝ても期待し、最後には本当に神経の病気になります。



 『幸不幸は神様が作るのではありません。幸不幸は古いカンマによって生じるのでもありません。そして幸不幸の原因はないのではなく、原因はあります。原因は、因果の法則で正しく行動したか、誤って行動したかであり、因果の法則に反した行動をすれば苦が生じ、間違わなければ苦は生じません。因果の法則で間違っている行動するのは、感情が触れた時です。触がある時は、因果の法則で正しい行動をしなければならない最も重要な時です。そうすれば苦は生じません』。

 サティをこのようにできれば、家で出家することは、どこのお寺で出家するよりも善いです。
[以上引用終]




 目的は抜苦。正しい行動とは、すべての触にサティを入れること。当然難しい、練習あるのみ。因果法則を信じて、結果を思わない。
 人生はかくのごとくシンプルだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(おまけ)
フォー・トップス。
「リーチ・アウト・アイル・ビー・ゼア」

 

いいガタイをしたオッサン達が、そろってかわいい動きをする、この定番のスタイルに昔から違和感を感じるが、そこがまた面白いとも思う。

Four Tops ...Reach Out I'll Be There .... 1967

 

 

 

 

 

 ジェリー・リー・ルイス
解説によれば、「火の玉ロック」も「陽気にやろうぜ」も歌詞に性的な意味が隠されている(おれは全然わかりません)

jerry lee lewis great balls of fire

Jerry Lee Lewis - Whole Lotta Shakin' Going On (From "Legends of Rock 'n' Roll" DVD)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
(過去記事編集再録)
 

托鉢するブッダと労働する農夫の緊張感ある対話

(スッタニパータ1・4概略) 

 

あるとき釈尊は、托鉢(たくはつ)に出て、手広く農業を営んでいるパーラドヴァージャというバラモンに近づき、そばに立った。 

 

パーラドヴァージャは、食を受けるために立っている釈尊に告げた。

「沙門よ。わたしは耕して、種をまき、働いた後で食べます。 沙門よ。あなたもまた耕して、種をまき、働いた後で食べるべきです」 

 

釈尊

バラモンよ、わたしも耕して、種をまき、働いた後で食べるのです」

 

(パーラドヴァージャ)

「あなたは耕作者であるとみずからいっておられるが、あなたが田畑を耕しているのを、わたしは見たことがありません。おたずねします。あなたが耕作者であるというわけを説明してください」

 

釈尊

「信仰はわが播く種である。 苦行は雨。 知恵はわが(くびき)(すき)慙愧(ざんき)は鋤棒。 意は縛る縄。 念は鋤先と鞭。 身を慎み、口を慎み、食を慎み、真理をもって草を刈る。 柔和がわがいこいである。 精進努力がわが牛であり、安穏(あんのん)の境地に運んでくれる。 退くことなく、そこに至ったなら、もはや憂えることはない。 この耕作はこのようになされ、甘露の果を収穫し、いっさいの苦しみから開放される」 

 

パーラドヴァージャはハッとした。 

(以上)

 

 

おれは昔、初めてこれを読んだとき、釈尊が詭弁を弄していると思った。

 

 今、まったくそうは思っていない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

DVDを観る

 

「クルーエル・インテンションズ」中佳作。  

原作が優れている。

ラクロの「危険な関係」だ。

 何度も映画化されている。 

これは主役を現代の高校生に、舞台をアメリカに上手に置き換えたもの。 

本作の続編としてクルーエル・インテンションズ2と3が製作されている。

 

(過去記事編集再録)